〜うりうの山についての思想〜

とりあえず、山のコラムをピックアップして羅列しました。後ほどこれらを整理します。

しょぼい山の取り扱い
人間いいものを見た後、しょぼいものをみたら「さえない」と思うのは人情であろう。例えば、ディズニーランドへ行ったあと、花やしきへ行く気がしないのもそうであろう。(そうでない人もいると思うが)
同じように、山も、すばらしい景色などの山へ行った後、近所の裏山のような山へは行く気がしない。しかし、すばらしい山は近所にない事も多く、「百名山」をめざしている人はしょぼい百名山も登らなければいけない。つまり、現実的にはしょぼい山も登らなければいけない。
しょぼい山を面白くする方法としては、
1、岩登りにシフトし、より技術が高い岩場をめざす(ボルダリングも含む)
2、トレイルランでどれだけ距離を稼ぐか競う
が一般的?であろう。筆者は現在は2を実行しているが、いづれ1を実行する(かもしれない)。さらに筆者は
3、息子と登山
という手を使って、しょぼい山を「楽しく」している。(楽しいという表現はかなり微妙)

仕事をしているから山へも行ける
山へ行くにはどうしても費用がかかる。仕事をして「お金」を稼がないと山へ行く費用は捻出できない。仕事は山へ行く制約であるが、仕事がなければ山へも行けない。仕事は大好きではないが、必要な存在であるのも事実である。
 仕事の必要性を感じることもできるのも、山のおかげである。

年だから出来ない
できれば「年だから出来ない」という言葉は使いたくない。 可能性をつぶした時点で、それをするチャンスは永遠になくなる。

登山とは
筆者にとって登山は全てではない。グライダーを上空へ引き上げる、牽引する車みたいなものである。
 筆者の全ては「日常」である。ただ、日常にエネルギーを与えるためには登山(冒険)が必要である。登山(冒険)をやり始めてから、仕事へのエネルギーが沸いてきた。

制約があるから感動する
このHPの題名は「仕事と家庭の制約の中の登山」であるが、この「制約」がなくなってしまうと、おそらく筆者は登山はやめるであろう。
 人間の全ては「制約」の中で生きている。仕事、家庭に限らず、食事をしなければならないし、いつまででも眠らずに行動することはできない。さらにいってしまうと永遠に生きる人はいない。
 「制約」がもしなくなったりすると、あたえられた「貴重な時間」という概念がなくなり、その時間を無駄にしてしまう。ありがたみがなくなったものは、なにも感動はない。
 人間は限られた時間があるからこそ感動もできるのである。

生きている実感
きつい練習、危険なことをしていると「死ぬかもしれない」と思うときがある。不思議なことに、こう思ったときに初めて「生きている実感」がわいてくる。
 いまの日本の多くの人は「生きている実感」がないので、些細なことを気にしたりする。こういう点では豊かな生活も「不幸」であると思う。

日本万歳
特に国粋主義者というわけではなく、日本の自然は本当にすばらしいと思うし、そこへすぐに行くことができる。
 そもそも大都市に住んでおきながら、日帰りで、本格的登山、海での遊び等ができるのはの日本ぐらいで、他の国の大都市は、そういうことが出来ない。さらに、四季が揃っており、日本でできない楽しいことは無いのではないか、というぐらい楽しいことが豊富である。
 まさに、日本万歳である。

自然志向
もっとも原始的なスポーツであるマラソンは、走った後の爽快感がたまらない。他のスポーツはそういう爽快感は得られない(登山はマラソンの一種)。こういう原始的な感覚が良いと感じるのはまさに「自然志向」ではないかと考える。

継続性のある楽しみ
考えてみると、登山は、人によっては「継続性のない楽しみ」に分類されるかもしれない。例えば「百名山制覇」を目標にしたとしたら、達成されたあとは何をするのでしょうか?おそらく百名山以外の山は百名山ほど面白い山がないので、情熱は冷めてゆくかもしれない。
 そこで、体力がある若い人はより難しい登山を求めるという方法もある。その他、写真を撮る、花を見るなど別の角度でとらえようとする方法もある。
 筆者は、ホームページと絡める、息子・家族という要素と絡める、ことによって継続性を高めようと考えている。「息子」という要素はとても大きい。現在息子は全く山は登れないので近場のどうでもいい山でも、立派な登山であるが、大人の筆者にとっては実につまらない。しかし、これをホームページに載せることによって面白くしている。

実感
このホームページには普通の登山と観光登山とに分かれている。結果としてこうなったが、普通の登山と観光登山とではもつ印象が全然違う。
 そもそも観光登山には登山したという実感がない。思い返しても何か心に残ったものも少ない。一方、普通の登山は鮮烈に覚えている。やはり苦労した分、思い出も大きい。  最後まで思い出に残ることはつらいことのが多い。なにもしないのに思い出に残ることはほとんどない。これは肉体的にも精神的にも同じことが言える。 思い出づくりには、つらいことをしようかと考えている。(仕事でつらいのはいやだけどね)

宗教感
心に絶対的なものがあると「自信」につながる可能性があると思われる。
 心に絶対的なもの・・・といえば、宗教。筆者は全く宗教は信じていない。しかし、宗教感(宗教観ではない)というものは少し信じている。宗教感というのはどういうものか、いままでのコラムでも述べたが、「何かに打ち込めること」である。何かに打ち込んでいる時はまさに、神聖な気持ちになれる。

感情労働
ホームページを見ていただければなんとなくわかるが、休みの日の方が肉体的に大変なことをしている。「感情労働」という言葉があるが、最近はこの「感情労働」がもっともつらい仕事と考えている人が多いのではないか。
 肉体的疲労は悪い感情の疲れをとってくれる気がする。

登山は特別なこと?
世の中の人に「登山」は特別なものと考えている人が多いようだ。ハイキングはいいけど、登山はだめ、という人までいる。そもそも、散歩・ハイキング・登山、どれも歩くことには変わらない。
 ただ、登山は標高が高いところに行くため寒かったり、崖があったり、道が悪かったりするところが違う。このため、いろいろな装備が必要となってくる。
 筆者は学生時代はスキーをやっていたので、冬の寒さ、雪の道路の移動の怖さは良く分かっている。なのでこの山はどれぐらいの装備で大丈夫かはなんとなく分かる。しかし、いままで分からなかったことが実戦によって分かってきた。本当に経験に勝るものはないと痛感する。
 つまり、どんな難しそうなことも、いろいろ経験することにより、多くのことは積み重ねで出来るようになるということ。

理想の日帰り登山をめざす理由
トップページにも書いてある理想の日帰り登山をめざす理由は
・長い間留守にして家族を心配させない
・しかし山に登りたい
・フレッシュな体験を家族に話したい
が理由である。

単独登山と息子との登山
ホームページを見ててお気づきになるかと思うが、単独登山と息子との登山が混在している。なぜかというと二つにはそれぞれの意味がある。
単独登山は純粋に自分の楽しみの実現である。一方、息子との登山は
・息子を登山に洗脳する。
・息子を鍛錬する。
・さえない山でも息子同伴だと「しょうがない」と納得できる。
・さえない山でも息子同伴だと、いろいろな意味で自分の鍛錬となる。
・さえない山でも息子同伴だと、ネタになる。
の目的がある。

登山の効能
日常頑張るためには何が必要かというとそれは「目的意識」だと思う。その目的意識もあまりに長期的であるといやになってしまう。そこで、短期から長期にわたる目的が混在していて頑張れる。
・登山・マラソン大会はは「短期」的な目標、どちらも当日のうちに達成可能だ。
・日常のジョギングは「中長期」的な目標、健康維持、登山、マラソン大会のための体力維持のために。
・仕事・子供の教育は「長期」的な目標、果てしない遠い先を見据えている。
筆者は登山を何のためにしているかというと、短期的な目標を持たないと長期的な目標を頑張れないためである。

エスカレートに対する戒め
おそらく多くの人がそうであると思うが、登山をはじめると最初は「登れれば満足」であったところが、より難しい登山はなにか・・・とエスカレートしていくと思う。しかしながら登山は「娯楽」であり、それで命を落とすようなことがあってはぜったいにいけないと思う。このことは登山に行く前に必ず妻の許可を得ることで危険度を下げている。

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